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北越戊辰戦争 [新潟市内散策]

DSCF1620_640.jpg新潟市は戊辰戦争の戦場になりました。
現在、市内のその戦跡を見つける事は困難ですが、戊辰戦跡めぐりをして見ました。
慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、4月の江戸無血開城を経て、5月には越後へと戦場を移します。
北越戊辰戦争の主戦場は長岡城をめぐる攻防でしたが、5月19日の長岡城落城後、戦線は膠着状態に陥ります。
そのころ新潟は奥羽列藩同盟諸藩の武器弾薬の補給拠点となっていました。
エドワード・スネルが横浜から大量の武器弾薬を船で搬送し、勝楽寺を拠点に東北諸藩とさかんに取引を行うのはこの頃のことです。(2009年5月4日寺町散策(その2)の記事を参照してください。)
政府軍は戦線膠着状況の打開のため、新潟攻略を決意します。
写真は新潟守備の拠点となった奉行所の跡です。奉行所は西堀通りと交差する柾谷小路の突き当たり、今の三越とNEXT21のあたりにありました。

DSCF1219龍雲寺(新発田藩屯所)_640.jpg新潟は幕府の直轄地でしたが、幕末のこの時期は米沢藩の色部長門を軍事総督として、米沢、仙台、会津、庄内藩による共同管理となっていました。
諸藩は奉行所を中心に信濃川左岸に広がる新潟を守備しました。
海岸には5箇所の砲台を築き、政府軍の侵攻に備えます。
新潟の町の守備隊数およそ400名。
信濃川右岸は当時、新発田藩領であり、新発田藩は沼垂の龍雲寺を本陣とし、兵約200名を駐屯させます。
写真は沼垂の龍雲寺です。

慶応4年7月25日、政府軍は柏崎から兵を乗せた船団を組み、佐渡の小木港を経て新潟の北方、阿賀野川付近の松浜に上陸しました。政府軍は、軍艦2隻、輸送艦4隻、佐渡で調達した漁船30、兵員1200名の規模です。
上陸地は新発田藩領です。
新発田藩は奥羽列藩同盟に加わってしましたが、7月中旬、既に政府軍へ内応の意志を伝えています。
7月26日には、政府軍は阿賀野川を渡り、沼垂を拠点とする新発田藩兵と合流し、信濃川右岸に展開をします。
信濃川を挟んで、政府軍と同盟軍の間で砲撃戦が開始されます。政府軍は軍艦で海側からも新潟の町に砲撃を加えます。
こうして新潟の街は戦場となりました。


DSCF1648_640.jpg7月29日未明、政府軍は、3手に別れ、信濃川を渡河し、新潟に侵攻を開始します。
下流側を渡った薩摩藩を中心とする一隊は、大川前に上陸し、柾谷小路を避け、広小路へ迂回し奉行所を目指します。
上所から関屋方面に向かった長州藩を中心とした一隊は、白山浦の守備隊の陣を破り、町へ入りました。
平島に上陸した一隊は、関屋方面へ向かいました。そこで、市内から脱出してきた守備隊軍事総督色部長門と遭遇戦となりました。
写真は、政府軍が陣を敷いた関屋金鉢山です。(いまは公園となっています)
標高20m程度の丘ではありますが、登ってみると平坦な新潟の町を見渡すことができます。



DSCF1673_640.jpg

色部は政府軍の銃撃を受けて、この金鉢山付近で戦死しました。
付近の住民が建立した墓碑が念仏寺に残っています。
「慶応4年7月29日戦死者4名の墓」と刻んであるらしいのですが、小さな墓碑の表面は摩滅が激しく読めません。
この攻防で市内500の民家が焼失しました。
写真は墓碑のある念仏時の境内です。
この日、長岡藩によって一度は奪還された長岡城も落城しました。
こうして越後における戊辰戦争も終焉を迎えます。
9月8日、慶応から明治に改元され、9月22日には会津城も落城しました。


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マミヤン

念仏寺 実家は檀家ですが知りませんでした!子供も近くの高校に通っています古戦場だとも知らずに(笑)
by マミヤン (2015-08-25 16:37) 

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