信州戸倉上山田温泉 [新潟県外への旅]
信州上田へ仕事で出かけました。
シベリアからの寒気団が居座り続け、新潟県内は雪続きの毎日です。
鉄道の運休や、運行遅延、高速道路も通行止め、規制が当たり前のようになっています。
そんな中で、新幹線だけは順調に動いています。
新幹線は、雪の湯沢を過ぎて新潟県を後にします。
トンネルを抜けると青い空、乾いた大地の関東平野が広がっていました。
高崎駅で長野新幹線を待つ間、青い空を眺めながら、
「不公平だ、足して2で割れ、税金を安くしろ。」と同行者がぼやいていました。
2012年初詣続き(八事興正寺) [新潟県外への旅]
地下鉄の八事駅を出て歩くことしばらくして、八事山興正寺の門前に到着しました。
興正寺を訪れるのは初めてです。
中門の奥に五重の塔が聳えます。
興正寺の創建は元禄元年(1688年)になります。
江戸期、八事山一帯は名古屋の人々の行楽地であり、ここをたずねることを「山行き」といったそうです。
尾張名所図会には遠くに帆掛け舟が見える眺望の中で、花見に興ずる人々の絵があります。
興正寺は、尾張藩主徳川光友の帰依を受けて広大な敷地を与えられ、数多くの堂塔が営まれますが、その理由については言い伝えがあります。
2012年初詣(熱田神宮) [新潟県外への旅]
1月1日、朝食を済ませ、初詣に出かけます。
年賀状に熱田神宮へ詣でますと書いてしまったため、取りあえず熱田神宮です。
いつもは地下鉄の神宮西駅から出て、西門から入ります。
正門にあたる一の鳥居は南に向いています。
今年は正門に回ってみました。
鬱蒼と茂る神宮の杜が神域の厳かさを演出しています。
会津・喜多方紀行8(末廣) [新潟県外への旅]
会津・喜多方紀行7(SLばんえつ物語号) [新潟県外への旅]
新潟・会津若松間を「SLばんえつ物語号」が一日一往復しています。
土日を中心に運行されていましたが、今年7月の新潟福島集中豪雨により線路が損害を被り運休中でありました。
最近、運行再開されたので、今回の会津喜多方の旅となりました。
帰途は、この列車での旅になります。
会津・喜多方紀行6(会津みやげ) [新潟県外への旅]
「首振り招福卯」と言います。
西会津の郷土玩具です。
表情のかわいらしさにひかれて、買ってしまいました。
兎は今年の干支です。
もう一年も終わりですが、この兎が今年の年賀切手のデザインに使われていました。
会津・喜多方紀行4(会津若松七日町通り) [新潟県外への旅]
越後街道と米沢街道が通る通りで、西の玄関口でした。
かつては旅籠や問屋が立ち並ぶ街並みでした。
戊辰戦争のころ、明治元年には旅籠の数は33軒を数えたといいます。
現在でも蔵や洋館が立ち並ぶ通りです。
七日町通りの西端にある阿弥陀寺に鶴ヶ城の遺構があります。
写真の背の高い異様な建物です。
本丸にあり、御三階と呼ばれた建物です。
密議所として使われたと解説板にありました。
維新後、阿弥陀寺に移築されて本堂として使われていました。
そして境内で、新撰組斉藤一の墓を見つけました。
まさかこんなところにあったとは思ってもいませんでした。
阿弥陀寺を起点にして七日町通りを歩いてみます。
会津・喜多方紀行3(会津戊辰戦争を偲ぶ) [新潟県外への旅]
駅前に白虎隊の像が立っていました。
会津若松と言えば、戊辰戦争での鶴ヶ城の籠城戦、白虎隊の悲劇が有名ですね。
そこで、「会津戊辰戦争を偲んで若松の街を歩く」が今回の旅のテーマです。
戊辰戦争に、会津藩を応援するべくこの若松の地を踏んだ、諸隊の存在をご存じだと思います。
それらの一つ郡上藩凌霜隊をご存知でしょうか。
わが故郷、美濃郡上藩は戊辰戦争時は勤王方に付きました。
しかし江戸藩邸には佐幕の一派がおり、藩士のうち47名が脱藩し、会津応援に向かったのです。
江戸家老の子、朝比奈茂吉を隊長(17歳)に、関東各地で政府軍との闘いを繰り返しながら、会津を目指します。
主家青山家の紋は「葉菊」なのですが、葉菊は霜をよく凌いで咲くことにちなんだ名前だそうです。
その凌霜隊の足跡を求めて、会津の街を歩いてみたいと思います。
会津・喜多方紀行1(喜多方) [新潟県外への旅]
晩秋の会津・喜多方へ旅をしました。
新潟を出発した列車は阿賀野川に沿って走ります。
広々とした平野から徐々に山間部に入り、川沿いの山肌を縫うようにして進んだ列車はやがて会津盆地の北端に出ます。
鉄路は喜多方を経て会津若松に向かいますが、まずは喜多方に途中下車しました。
喜多方は蔵とラーメンで知られた町です。
蔵がたくさんあり、それが現在も店舗や住居などとして使われていることで有名ですが、歴史的には酒・味噌などの醸造業に使われたこと、明治の大火で蔵の防火性能を人々が改めて認識したこと、蔵を建てることが男の甲斐性とされた風土であったことなどの理由があるそうです。
しかし、全国的に有名となり、観光客が訪れる土地となったのは昭和50年のNHKの「蔵住まいの町」の放送がきっかけでした。
ある意味では喜多方の発見者はNHKなのです。(正確にはNHKのディレクター須磨晃)
地元の人には既知の文化ではあるが、それ以外には知られていなかったものが地元以外の人に発見され、世間に認識されるのは歴史上、多々あることです。
コロンブスのアメリカ大陸発見のように。
こうして喜多方は発見され、そして観光地になったのです。
写真はお酒の蔵元です。
蔵造りの店舗になっています。
酒の熟成にモーツァルトの曲を聞かせるというユニークな酒屋さんです。
湊町酒田を歩く2(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
鐙屋と同じ、本町通りに「本間家旧本邸」があります。
戦前までは日本最大の大地主と言われ、俗謡にも「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵前雨が降る、本間様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われた大富豪の屋敷です。
薬医門に続く白壁の塀は武家屋敷のようです。
本間家は佐渡本間氏の分家で、元禄のころ、「新潟屋」の屋号で酒田本町に店を構え、商いを始めます。
関西から古手、染物、金物などを仕入れ、商いを大きくしてゆきます。
やがて、酒田の36人衆の中に選ばれ、庄内藩への御用金を提供するような商人に成長しました。
このころから田畑を取得し、地主との一歩を踏み出します。
三代本間光丘はその財力をあてにした藩から請われて、庄内藩財政立て直しに携わります。
明和4年のことです。
ですから、商人ながら士分を持つ家柄となっています。
湊町酒田を歩く1(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
最上川河口近くに広がる酒田の町は、北前船が行き来する日本海航路の湊町として栄えました。
新潟の町が長岡藩領であったと同じように、酒田の町は庄内藩領でした。
酒田には庄内藩の奉行所が置かれましたが、36人衆と呼ばれる町年寄役が町政に関わっています。
写真は酒田のランドマーク、山居倉庫です。
明治26年に米穀倉庫として建てられ、倉庫を管理運営するのは、旧庄内藩酒井家から全農へと変わっていますが、今もなお現役の倉庫です。
海坂藩を訪ねる3(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
藤沢周平の「暗殺の年輪」は直木賞の受賞作ですが、これも藩内の派閥争いが背景になっています。
主人公の葛西謦之助は家老から、中老嶺岡の暗殺を命じられます。
「嶺岡が下城するのは五ツ」の知らせを受けて、謦之助は、闇のなか上士の武家屋敷が並ぶ塀の陰に潜み、嶺岡を待ち伏せします。
鶴ゲ岡城の大手門は東に向かって開いています。
そこから、内川(小説では五間川)に架かる三雪橋(9月25日の記事の赤い橋です)へ続く道は一直線となっています。
両側に上士の屋敷が並んでいたそうです。
写真の黒い門は、庄内藩の家老末松家の屋敷門です。
とすれば、謦之助が潜んだのは、このあたりでしょうか。
・・・と、門の内をよく見れば、向こうには赤い尖塔を持った白い建物が見えるではありませんか。
海坂藩を訪ねる2(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
丙申堂の玄関です。
鶴岡の豪商風間家の店舗兼住宅です。
風間家は越後の沢海から、この鶴岡へ移住し、有数の商家として栄え、荘内銀行の創立に係わったそうです。
かつては沢海藩の武士でしたが、沢海藩が改易になるととともに、武士を廃業して鶴岡に移住して成功したのですね。
現在の建物は明治29年の丙申の年に建てられた建物だそうです。
その壮大さ、部屋数の多さに驚きます。
掃除機、使っても、一日かがりかも。
そして特徴的な屋根が印象的でした。
海坂藩を訪ねる(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
連休を利用して鶴岡・酒田への旅をしました。
鶴岡・酒田には江戸時代、酒井家庄内藩が置かれました。
酒井家は「徳川実記」によれば徳川家の庶流(分家)と言われ、徳川四天王筆頭とされる家系です。
江戸初期、最上家の断絶後、庄内に移封され、明治維新まで続いた藩であります。
そして幕末の維新戦争では最後まで戦った藩となります。
要は、三河の在のひとですね。
そんな歴史より、最近は藤沢周平の歴史小説の舞台「海坂藩」のモデルとして知られているようです。
今回は小説の舞台を訪ねる旅です。
新潟から特急いなほで鶴岡を目指します。
村上を過ぎると列車は、海沿いを走ります。
笹川流れを過ぎしばらく走ると、義経の東下りの伝説のある鼠ヶ関はもう鶴岡市です。
義経の東下り:頼朝に追われた義経は奥州平泉へ逃亡しますが、ここ鼠ヶ関を経由したと言い伝えられています。
蘆花恒春園 [新潟県外への旅]
東京へ出張でした。
予定より早く目的地に着いたので、近くを散歩しました。
蘆花公園の桃です。
雪の新潟を後に、一足早く春の気分を味わいました。
ここには、徳冨蘆花の住まいが残っています。
トルストイに傾倒した蘆花は、ロシアにトルストイを訪ねます。
その後、武蔵野の自然が広がる世田谷のこの地に居をさだめ、半農生活を営みます。
蘆花といえば「不如帰」が有名ですが、読んだことありますか。
私は読んだことありません。
以下は小説の冒頭部分です。
『上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。
年は十八九。
品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。
色白の細面、眉の間ややせまりて、頬のあたりの肉寒げなるが、疵といわば疵なれど、瘠形のすらりとしおらしき人品。
これや北風に一輪つよきを誇る梅花にあらず、また霞の春に蝴蝶と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。』
・・・・と、先を急ぎますので、これで読んだつもりになります。
(本文の訂正:写真の木について「芦花公園の梅」としていましたが、ブログを見た母から「枝ぶりからすると、あれは桃だね。」との指摘を受けましたので、梅→桃に訂正しました。植物学上は梅も、桃も、桜も、バラ科サクラ属です、私には梅と桃の違いがよくわかりません。)