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和菓子の旅1・芳光(名古屋市東区) [お菓子]

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名古屋市東区の徳川園の近くにある和菓子所「芳光」は、わらび餅で有名です。
姉宅訪問の手土産にここのわらび餅と生菓子を買いました。

芳光は昭和39年の創業という新しい和菓子屋さんですが、京都の塩芳軒で修行をされたそうで、
名古屋の茶人からは絶大なる支持を受けているという話です。

口ざわりのやわらかさ、甘さもくどくなく、美味しいの一言です。

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名古屋散策(白林禅寺) [新潟県外への旅]

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1月3日名古屋の町を散策します。
大須から栄を歩きました。
大須観音は元日と変わらず初詣の長蛇の列が続いていました。
写真は万松寺前の賑わいです。

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2012年初詣続き(八事興正寺) [新潟県外への旅]

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地下鉄の八事駅を出て歩くことしばらくして、八事山興正寺の門前に到着しました。
興正寺を訪れるのは初めてです。
中門の奥に五重の塔が聳えます。

興正寺の創建は元禄元年(1688年)になります。
江戸期、八事山一帯は名古屋の人々の行楽地であり、ここをたずねることを「山行き」といったそうです。
尾張名所図会には遠くに帆掛け舟が見える眺望の中で、花見に興ずる人々の絵があります。

興正寺は、尾張藩主徳川光友の帰依を受けて広大な敷地を与えられ、数多くの堂塔が営まれますが、その理由については言い伝えがあります。

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2012年初詣(熱田神宮) [新潟県外への旅]

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1月1日、朝食を済ませ、初詣に出かけます。
年賀状に熱田神宮へ詣でますと書いてしまったため、取りあえず熱田神宮です。
いつもは地下鉄の神宮西駅から出て、西門から入ります。
正門にあたる一の鳥居は南に向いています。
今年は正門に回ってみました。
鬱蒼と茂る神宮の杜が神域の厳かさを演出しています。

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大晦日の新潟空港 [新潟市内散策]

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2011年の大晦日早朝、新潟空港から名古屋へ向かいます。
ここのところ、低気圧のため荒天が続いていましたが、朝日に照らされる空港です。
天候に恵まれ、飛行機も無事、飛びそうです。

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だんご屋放浪記(6)古町伊勢屋(新潟市中央区) [新潟の食べ物]

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年の瀬の町を白山神社まで散策です。
低気圧の影響で日本海側は大雪の予報が続いていますが、新潟市内は積雪がありません。
風が強く、十分に寒いのではありますが。
白山神社はもうすっかり初詣の準備が整っていました。

ところで、この近くにも団子屋さんがあったような気がします。
そう、そう上古町の伊勢屋さんです。

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だんご屋放浪記(5)笹川餅屋(新潟市中央区) [新潟の食べ物]

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新潟島を南北に走る道筋を古町通り、西堀通りなどと、「通り」と呼びます。
そして「通り」と「通り」を繋ぐ東西の道を「小路」と言います。
そうした小路のひとつ、鍛冶小路のシンボル的存在が笹川餅屋です。
新潟市が発行する市内散策ガイド「新潟の町・小路めぐり」の鍛冶小路の項に描かれた「笹川餅屋」の店舗風景です。
ガイドブックには「餅は餅屋に寺町に」と意味不明のフレーズが載っています。

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会津・喜多方紀行8(末廣) [新潟県外への旅]

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 会津は酒どころでもあります。
会津若松とその周辺には10を超える酒蔵があります。
これは、その一つ末廣酒造の店構えです。
七日町通りと交差する大和町通りにありました。
大きな杉玉が軒下に懸っています。
自転車のおじさんの姿と比較してみてください。


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会津・喜多方紀行7(SLばんえつ物語号) [新潟県外への旅]

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会津若松駅のプラットホームに入線したC57蒸気機関車です。
新潟・会津若松間を「SLばんえつ物語号」が一日一往復しています。
土日を中心に運行されていましたが、今年7月の新潟福島集中豪雨により線路が損害を被り運休中でありました。
最近、運行再開されたので、今回の会津喜多方の旅となりました。
帰途は、この列車での旅になります。

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会津・喜多方紀行6(会津みやげ) [新潟県外への旅]

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「首振り招福卯」と言います。
西会津の郷土玩具です。
表情のかわいらしさにひかれて、買ってしまいました。
兎は今年の干支です。
もう一年も終わりですが、この兎が今年の年賀切手のデザインに使われていました。

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会津・喜多方紀行5(会津若松で食べたもの) [新潟以外の食べ物]

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炭火で焼かれているのは、味噌田楽です。
七日町通りと交差する「桂林寺通り」に田楽と大きな暖簾を掛けた店がありました。
その「満田屋」の店内で焼かれている田楽です。
元は武士の野戦料理とも言われていますが、今は会津の郷土料理の代表格です。
この店以外にも、味噌田楽を供する店が多いようです。

田楽といえば豆腐を思い浮かべますが、ここの材料は多岐にわたります。
里芋が手前に見えますが、その向かい、奥はニシンです。
そしてお決まりの豆腐は右手に見えます。

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会津・喜多方紀行4(会津若松七日町通り) [新潟県外への旅]

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会津若松の札の辻から西に向かう通りを七日町通りといいます。
越後街道と米沢街道が通る通りで、西の玄関口でした。
かつては旅籠や問屋が立ち並ぶ街並みでした。
戊辰戦争のころ、明治元年には旅籠の数は33軒を数えたといいます。
現在でも蔵や洋館が立ち並ぶ通りです。

七日町通りの西端にある阿弥陀寺に鶴ヶ城の遺構があります。
写真の背の高い異様な建物です。
本丸にあり、御三階と呼ばれた建物です。
密議所として使われたと解説板にありました。
維新後、阿弥陀寺に移築されて本堂として使われていました。
そして境内で、新撰組斉藤一の墓を見つけました。
まさかこんなところにあったとは思ってもいませんでした。

阿弥陀寺を起点にして七日町通りを歩いてみます。

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会津・喜多方紀行3(会津戊辰戦争を偲ぶ) [新潟県外への旅]

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喜多方から列車でおよそ15分で会津若松の駅につきます。
駅前に白虎隊の像が立っていました。
会津若松と言えば、戊辰戦争での鶴ヶ城の籠城戦、白虎隊の悲劇が有名ですね。
そこで、「会津戊辰戦争を偲んで若松の街を歩く」が今回の旅のテーマです。

戊辰戦争に、会津藩を応援するべくこの若松の地を踏んだ、諸隊の存在をご存じだと思います。
旧幕府の衝鋒隊、貫義隊、草風隊や、土方歳三率いる新選組などです。
それらの一つ郡上藩凌霜隊をご存知でしょうか。

わが故郷、美濃郡上藩は戊辰戦争時は勤王方に付きました。
しかし江戸藩邸には佐幕の一派がおり、藩士のうち47名が脱藩し、会津応援に向かったのです。
江戸家老の子、朝比奈茂吉を隊長(17歳)に、関東各地で政府軍との闘いを繰り返しながら、会津を目指します。
 その隊名を凌霜隊といいます。
主家青山家の紋は「葉菊」なのですが、葉菊は霜をよく凌いで咲くことにちなんだ名前だそうです。
その凌霜隊の足跡を求めて、会津の街を歩いてみたいと思います。

 

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会津・喜多方紀行2(喜多方で食べたもの) [新潟以外の食べ物]

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喜多方と言えばラーメンです。
市内のラーメン店はおそらく100軒を超えるでしょう。
ラーメンの街と言われる由縁です。
スープはとんこつ、鶏がら、魚介など店により、違いがあるようです。
タレも醤油だれが多いようですが、塩、味噌だれを使ったものもあるようです。
共通しているのはもちもちとした感触の縮れた平たく太い麺です。
「平打ち熟成多加水麺」というのだそうです。



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会津・喜多方紀行1(喜多方) [新潟県外への旅]

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晩秋の会津・喜多方へ旅をしました。
新潟を出発した列車は阿賀野川に沿って走ります。
広々とした平野から徐々に山間部に入り、川沿いの山肌を縫うようにして進んだ列車はやがて会津盆地の北端に出ます。
鉄路は喜多方を経て会津若松に向かいますが、まずは喜多方に途中下車しました。

喜多方は蔵とラーメンで知られた町です。
蔵がたくさんあり、それが現在も店舗や住居などとして使われていることで有名ですが、歴史的には酒・味噌などの醸造業に使われたこと、明治の大火で蔵の防火性能を人々が改めて認識したこと、蔵を建てることが男の甲斐性とされた風土であったことなどの理由があるそうです。

しかし、全国的に有名となり、観光客が訪れる土地となったのは昭和50年のNHKの「蔵住まいの町」の放送がきっかけでした。
ある意味では喜多方の発見者はNHKなのです。(正確にはNHKのディレクター須磨晃)

地元の人には既知の文化ではあるが、それ以外には知られていなかったものが地元以外の人に発見され、世間に認識されるのは歴史上、多々あることです。
コロンブスのアメリカ大陸発見のように。
こうして喜多方は発見され、そして観光地になったのです。

写真はお酒の蔵元です。
蔵造りの店舗になっています。
酒の熟成にモーツァルトの曲を聞かせるというユニークな酒屋さんです。

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だんご屋放浪記(4)米希舎(新潟市中央区) [新潟の食べ物]

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新潟市中央区鐙(あぶみ)の「米希舎」(まいきや)の店舗です。
本店は新潟市北区葛塚にあります。
創業は平成19年と言いますから、だんご屋業界では新参ではあります。
店のネーミングからして今風であります。
それはともかく、21世紀のこの時代に、あえて餅屋を始めようとするその意気を買ってみました。

中央区鐙のこの店は、ごく最近のオープンです。
創業数年にして、支店を出店とは、積極経営ですね。

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だんご屋放浪記(3)さわ山(新潟市中央区) [新潟の食べ物]

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「さわ山」は大正年間の創業というそうですから、老舗といっていいでしょう。
場所は多少不便なところにあります。
新潟市中央区夕栄町に所在します。
夕栄町は、かつて遊郭のあった本町通り14番町の近くです。
多くの場合、遊郭は風紀上の理由から町はずれにつくられたものです。
ということから、この店のローケーションを想像してみてください。

市の中心部を起点とすると不便な立地にもかかわらず、次から次へとお客さんが来ていました。
それも車で乗り付けて買って行く人たちが多いのです。
期待が高まる光景ではありませんか。

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だんご屋放浪記(2)村山屋(新潟市中央区) [新潟の食べ物]

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図書館への行き帰りにこの店の前を通ります。
「餅菓子村山屋」との看板が掲げられています。
図書館からの帰りに初めて立ち寄りました。

「村山屋」とはなんと素気ない名前なのでしょう。
そういえば、「江口だんご」も「笹川餅屋」もネーミングに工夫はありませんね。

桔梗屋河内、金沢丹後、亀屋陸奥など江戸、京の御菓子司の名前の重々しさと比較すると、軽いです。
御用菓子司は、江戸期、中御門家の支配を受け、金7両を支払って、受領名を授かったそうです。
「亀屋陸奥大掾」などと名乗ったそうです。
これらの御菓子司の扱うお菓子とは違う世界のお菓子に興味が惹かれています。
同じ町内に住む人々の日常の欲求を満たす商いをしていれば、活計(たつき)が成り立つ、屋号などなんでもいい。
そんな意識に支えられた屋号の無頓着さが好ましく感じられます。

中御門家:江戸期、菓子商人は京都の中御門家の支配を受け、江戸の浅草西福寺に出張し、通称名で営業する菓子屋を探索して、呼び出し、受領名を取得させたといいます。もちろんタダではありません。金7両で大掾の称号が与えられました。大掾は正七位に相当します。
本郷のお菓子やさん壺屋総本店はかつて「壺屋播磨大掾藤原武房」と称したそうです。(食いねぇ「あんこ菓子」:仲野欣子著:雄鶏社刊より)
京都の亀屋陸奥は松風で有名なお店ですが、陸奥は受領名だったのですね。

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だんご屋放浪記(1)江口だんご(長岡) [新潟の食べ物]

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京都、笹屋伊織の「どら焼き」です。
普通のどら焼きとはイメージが違います。
江戸時代、東寺からの依頼で当主が考案したお菓子です。
皮を鉄板の代わりに銅鑼を使って焼いたことから「どら焼き」との名前になったそうです。
弘法大師の命日の前後3日間しか販売されないというお菓子なので、いままで食べるチャンスがありませんでした。
ところが、先日新潟伊勢丹の京都物産展で、ルールに反して販売していました。
おかげで、初めて食べることができました。

ところで、新潟では笹団子で代表されるようように餅菓子が多く食されるためか、だんご屋さんを多く見かけます。

京都では、お使い物やお祝い事、茶事に使われる上菓子を扱うお店を「菓子匠」「御菓子匠」「お菓子屋はん」、普段に食べる饅頭や餅菓子を扱うお店を「おまんやさん」「おもちやさん」などと使い分けるそうです。
多くのお菓子が大メーカーによって供給される現在はこのような使い分けも日常からかけ離れつつあるようです。

というわけで郷愁を求めて、だんご屋のお菓子を覗きまわってみたいと思います。
題して「だんご屋放浪記」
1回目は長岡の「江口だんご」です。

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三国街道塩沢宿を歩く(鈴木牧之) [新潟県内の旅]

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前回に引き続き、三国街道塩沢宿の牧之通りを歩いています。
ところで通りの名前の由来となっている鈴木牧之という人物をご存じですか。
「北越雪譜」という本の著者なのですが。
雪国の生活や風俗などを紹介した本です。
江戸時代の人です。

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