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摩免戸の戦い [新潟県外への旅]

DSCF5462.jpg愛知県と岐阜県の県境を流れる木曽川の右岸に、平地に起立する小山があります。
山の名を矢熊山と言い、山頂に佛眼院、通称前渡不動尊があります。
不動尊の境内からは木曽川を隔てて尾張平野を眺望することができます。

時は1221年(承久3年)6月、ここで武家政権と公家勢力の時代を画する戦いが行われました。

 


 

DSCF5448.jpg日本史で学んだ覚えがある承久の乱です。
後鳥羽上皇の院宣に集う武士たち、北条政子の檄に鼓舞された武者たちが木曽川を挟んで戦い、ここでの戦いの結果が乱の趨勢を決定しました。
そしてこの乱を経て、公家政権は終焉を向かえ、頼朝に始まる武家政権が安定を迎えるのです。

壬申の乱、関が原の戦い、そして承久の乱、日本史の時代を画する戦場がこの美濃の地に集中するのは地理的な特性によるものでしょうか。




DSCF5449.jpg山の中腹にある承久の乱戦没者の供養塔です。
角が磨耗した五輪塔が並んでいます。
合戦の供養のために立てられた五輪塔は木曽川の氾濫のため長い間、埋没していました。
昭和の初め、発掘されこの山の中腹に安置されたそうです。

上皇側の敗因は、幕府軍を迎え撃つに、長大な木曽川沿いに勢力の分散配置を行ったためです。






DSCF5466.jpg

上皇側は矢熊山には1万騎を配したと言いますので、重要戦術拠点であったのでしょう。
山頂からの眺望がそれを裏づけます。

濃尾平野の中にそびえたつ急峻な斜面が戦術拠点らしさをかもし出しています。

対する北条泰時率いる幕府軍は10万騎。
前回の記事で紹介しました真清田神社に集結し、木曽川に進んだそうです。
山からその動きは手に取るように分かったと思われますが、戦力差は如何ともしがたかったようです。


承久の乱:父の三回忌のため実家に帰っています。
父の蔵書「岩波講座日本歴史5巻中世(1)」を開いてみますと承久の乱の記述がありました。
1192年の頼朝開府でいきなり武家政治が開始したのではなく、公武の二重政権状態が続いたのです。
30年後の承久の乱で公家政権は大きく後退し、武士の政治の安定が始まったことを知りました
乱後、西国の新補地頭も東国御家人に多く配分され、幕府支配が全国的な規模となったのです。


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