会津・喜多方紀行3(会津戊辰戦争を偲ぶ) [新潟県外への旅]
喜多方から列車でおよそ15分で会津若松の駅につきます。
駅前に白虎隊の像が立っていました。
会津若松と言えば、戊辰戦争での鶴ヶ城の籠城戦、白虎隊の悲劇が有名ですね。
そこで、「会津戊辰戦争を偲んで若松の街を歩く」が今回の旅のテーマです。
戊辰戦争に、会津藩を応援するべくこの若松の地を踏んだ、諸隊の存在をご存じだと思います。
駅前に白虎隊の像が立っていました。
会津若松と言えば、戊辰戦争での鶴ヶ城の籠城戦、白虎隊の悲劇が有名ですね。
そこで、「会津戊辰戦争を偲んで若松の街を歩く」が今回の旅のテーマです。
戊辰戦争に、会津藩を応援するべくこの若松の地を踏んだ、諸隊の存在をご存じだと思います。
旧幕府の衝鋒隊、貫義隊、草風隊や、土方歳三率いる新選組などです。
それらの一つ郡上藩凌霜隊をご存知でしょうか。
わが故郷、美濃郡上藩は戊辰戦争時は勤王方に付きました。
しかし江戸藩邸には佐幕の一派がおり、藩士のうち47名が脱藩し、会津応援に向かったのです。
江戸家老の子、朝比奈茂吉を隊長(17歳)に、関東各地で政府軍との闘いを繰り返しながら、会津を目指します。
それらの一つ郡上藩凌霜隊をご存知でしょうか。
わが故郷、美濃郡上藩は戊辰戦争時は勤王方に付きました。
しかし江戸藩邸には佐幕の一派がおり、藩士のうち47名が脱藩し、会津応援に向かったのです。
江戸家老の子、朝比奈茂吉を隊長(17歳)に、関東各地で政府軍との闘いを繰り返しながら、会津を目指します。
その隊名を凌霜隊といいます。
主家青山家の紋は「葉菊」なのですが、葉菊は霜をよく凌いで咲くことにちなんだ名前だそうです。
その凌霜隊の足跡を求めて、会津の街を歩いてみたいと思います。
主家青山家の紋は「葉菊」なのですが、葉菊は霜をよく凌いで咲くことにちなんだ名前だそうです。
その凌霜隊の足跡を求めて、会津の街を歩いてみたいと思います。
会津戊辰戦争の舞台となった会津若松城の天主閣です。
戊辰戦争で政府軍の砲撃を受けて傷んだ天主閣は明治7年に取り壊されています。
現在の天主閣は昭和40年に再建された建物です。
平成22年に瓦の葺き替えが行われ、赤い瓦となっています。
幕末時のお城により近い外観となったものです。
小山、宇都宮、大内峠と転戦を重ね、凌霜隊が会津若松に到着したとき、鶴ヶ城は政府軍の包囲を受けて、既に籠城戦が始まっていました。
攻城軍の囲みを潜り抜け、会津城の西口、河原町口の郭門を経て、入城を果たします。
鶴ヶ城入城を果たしたのは慶応4年9月4日のことでした。
天主閣から、西出丸方面を望みます。
樹木で遮られ全貌が見られません。
凌霜隊は、白虎隊士中1番隊、2番隊の生き残りを中核とした再編白虎隊とともに西出丸の守備に当たりました。
西出丸の外には、堀を隔てて会津藩校日新館があります。
日新館に砲陣地を置いた政府軍と対峙して会津開城まで闘いました。
白虎隊と凌霜隊が決死の思いで守った西出丸は、現在、お城を訪れる人々の駐車場となっています。
お城のボランティアガイドに聞くと、凌霜隊を尋ねて訪れる人はほとんどいないそうです。
鶴ヶ城には凌霜隊を偲ぶよすがはありませんでした。
飯盛山に確か碑があったようだとのガイドのおじさんの言葉で、飯盛山まで足を延ばしました。
飯盛山の白虎隊墓地に向かう道です。
鶴ヶ城には凌霜隊を偲ぶよすがはありませんでした。
飯盛山に確か碑があったようだとのガイドのおじさんの言葉で、飯盛山まで足を延ばしました。
飯盛山の白虎隊墓地に向かう道です。
道の両側に土産物屋が連なりますが雨の所為か人出はあまりありませんでした。
白虎隊墓地から白虎隊自刃の地に向かう道筋に、凌霜隊の碑がありました。
会津開城後、凌霜隊の隊士たちは囚人として郡上藩に護送され、赤谷の揚屋に幽閉されます。
赤谷は東殿山の北麓にありますが、日当たりの悪い場所です。
そこに入牢し、死罪を申し付けられますが、明治3年になり釈放されました。
凌霜隊については、隊士の残した「心苦雑記」という記録がありますが、「裏葉菊」という小説もあります。
この小説では、脱藩という体裁をとりながら藩として隊士を会津に送り出し、官軍側と幕府側と二股をかけたという説をとっています。
小藩の選択としてありうる話ではあると思いますが、戦後の隊士たちへの処遇を思うとあまりにも悲しい話ではあります。
白虎隊墓地から白虎隊自刃の地に向かう道筋に、凌霜隊の碑がありました。
会津開城後、凌霜隊の隊士たちは囚人として郡上藩に護送され、赤谷の揚屋に幽閉されます。
赤谷は東殿山の北麓にありますが、日当たりの悪い場所です。
そこに入牢し、死罪を申し付けられますが、明治3年になり釈放されました。
凌霜隊については、隊士の残した「心苦雑記」という記録がありますが、「裏葉菊」という小説もあります。
この小説では、脱藩という体裁をとりながら藩として隊士を会津に送り出し、官軍側と幕府側と二股をかけたという説をとっています。
小藩の選択としてありうる話ではあると思いますが、戦後の隊士たちへの処遇を思うとあまりにも悲しい話ではあります。
2011-12-03 19:53
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