願随寺 [新潟市内散策]
下町と書いて「しもまち」と呼びます。
「したまち」ではありません。
写真は「みなとぴあ」の堀を模した水路です。
かつては新潟の町を縦横に堀が走り、柳の木が水面に映る景観がいたるところで見られました。
安政5年(1958年)幕府は、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を締結しました。
開港5港のうちの一つが新潟でした。
翌安政6年4月22日には、ロシア船ジキッド号が、4月23日にはオランダ船の新潟を訪れます。
さらに10月9日にはイギリス船が来航しました。
彼らは新潟港の水深を測り、河口近くに上陸し町を散策しました。
彼らの行く先々は一目見ようとする群集でいっぱいであったそうです。
ロシア船は、鶏40羽、卵400個、ネギ1貫、山芋106本、大梨2貫を買い求め出航しました。
その当時、新潟奉行所がオランダ船や、イギリス船の応対にあたった場所がこの願随寺でした。
イギリス船の来航時には、新潟に英語を話せる人物がいなかったため、イギリス船の中国人通訳を通じて漢文で筆談したという逸話が残っています。
警備に駆けつけた新発田藩、村松藩士の飾り立てた陣立ても珍しく、見物人で賑わったそうです。
当時の騒ぎが想像できます。
上大川前通りで見た民家です。
妻入りの屋根、白壁と押縁下見板張りの外壁、格子窓、町屋の典型のようなつくりでした。
ところで、新潟では横浜や神戸で見られるような外国人の洋館が並ぶ町並みは出来ませんでした。
その原因の一つは、開港時の「越後新潟佐州夷港外国人居留取極(とりきめ)」にあります。
その第7条に「外国人は土地や倉庫、住居を自由に借りる事ができること、居留地は定めないこと」という取り決めになっていたそうです。
新潟に来た外国人たちは街中の寺院や店を借りて分散して住んだため居留地に見られるような町並みが形成されなかったという事です。
もっとも、海外との交易港としてもあまり栄えなかったせいもあるでしょう。
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