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新潟明和事件を歩く(2) [新潟市内散策]

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日和山を出た群衆は、広小路橋北詰めまで押し出しました。
一方奉行所側も鉄砲隊を繰り出します。
坂内小路あたりで両者は衝突します。
奉行所側の鉄砲に、町民側は通りを挟む両屋根から薪、つぶてを投げて対抗します。

ついに奉行所側は敗走していまいます。

その後、群衆は黒装束の者たちの指揮で、密告者などの家屋の打ちこわしをしました。
翌朝までに打ちこわしにあった家屋は十五軒に上りました。

激突現場付近の坂内小路に立って、古町通りを望む光景です。

 
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町民の勢いに怯えた奉行所は藤四郎を釈放しました。
しかし、9月27日の夜も、各所の寺の早鐘に合図に群衆が繰り出しました。
この日は、下町だけではなく、上町の人々もときの声を上げて奉行所のある柾谷小路へ押し出します。

駆け付けた藤四郎の説得で、奉行所は襲撃を免れます。
長岡藩は鎮圧部隊を派遣し奉行所近くの光林寺に駐屯させますが、町民の結束に、手も出せないまま引き揚げます。

このような経過を経て、藤四郎は新潟町の頭取に押し上げられます。
この後、二か月間にわたり、新潟町は町民自治により治められます。
パリコミューンに先立つこと100年前の出来事でした。



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奉行所付近の現在の街並みです。
手前のガラス張りのビル(NEXT21)から、向こうに見える三越にかけて奉行所がありました。
最初に町民が集まった日和山からは距離にして1Km強、徒歩ならば15分程度のところです。

この間に、明和事件の伝説が伝わる二六夜塔がある真城院、町民が集まり連判状を作成した勝念寺、涌井家の菩提寺浄泉寺、長岡藩が町民を集め町の修復と手当米支給を決めた本覚寺など明和事件の舞台が並んでいます。


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西堀通りと鍛冶小路の交差点に位置する笹川餅屋です。

町民自治は長くは続かず、やがて藤四郎は藩から拘束され、長岡での取り調べを受けることになります。
そして、翌明和7年8月25日、藤四郎は新潟の牢屋敷で打ち首となりました。

その牢屋敷があったところが現在の笹川餅屋です。
赤い丸に杵の看板がユニークですが、ショーウインドウの中には陽物の置物などかなりユニークな飾り物が置いてあります。

そういえば新潟の町にはお餅屋さんが多いように感じます。
いずれ「餅屋放浪記」などと銘打って特集をせねばと思いました。



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古町通二番町にある愛宕神社境内社の口ノ神社は、千葉県の義人佐倉惣五郎の分霊を祭る神社であります。
藤四郎を慕う新潟の人たちが、千葉の口ノ宮の分霊を祭るとして、密かに藤四郎を併せ祭ったものです。




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今代司酒造のお酒に「明和義人」という純米吟醸酒があります。

散歩のあとは、杯を傾けながら、江戸の昔の新潟に想いを馳せます。
今代司は明和4年の創業だそうですが、藤四郎も飲んだでしょうか・・・・・などと。




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