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高田城(上越への旅) [新潟県内の旅]

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春日山下から、バスで高田城へ向かいます。
30分程度で高田公園に到着しました。
堀には色鮮やかな橋が架かり、水面は蓮で覆われています。

やっぱり平面のお城はいいですね・・・・足腰に負担がなくて。

秀吉の命で、上杉景勝は会津に移封されます。
その後を掘秀治が45万石で越後に入ってきました。
堀家は直江津の日本海に面した土地に福島城を作りました。
慶長12年のことです。
家康は加賀の前田家をけん制するために越後を徳川一族で固める必要を感じたためか、
堀家の領地を没収し、福島城に家康の6男忠輝を配しました。
その忠輝の時代につくられたのが、この高田城です。

堀家は内訌を理由に慶長15年に除封となっています。

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高田城は天下普請で造られました。
忠輝の義父にあたる伊達政宗を普請総裁として、加賀前田家ほか13名の大名が築城に携わりました。
しかし、大阪冬の陣を控えた時期につくられたため普請を急いだせいか、土居には石垣がありません。
天守台が計画されましたがこれも造られませんでした。
慶長19年のことです。
そして慶長19年10月には大阪冬の陣が始まりました。

写真の本丸の三重隅櫓が天守の代わりです。
本丸、二の丸を囲む堀は幅が広く、実戦を想定した造りを窺がわせます。

堀家の造った福島城はわずか7年で廃城となってしまいました。

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三重櫓を目指して、本丸に架かる極楽橋を渡ります。
木造の橋で趣があります。
堀には鯉が泳いでいました。

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三重櫓は復元ながら、木造でした。
小屋組みの太い木材が印象的です。

なお松平忠輝は、元和2年には不行跡を理由に除封となってしまいます。
高田城入城わずか2年の後のことです。
家臣殺害、大阪の陣の懈怠などが理由とされていますが、一説には義父伊達政宗とともに謀反をたくらんだとの言い伝えもあります。
平戸のイギリス商館長コックスの日記に、「風評によれば今や皇帝(家康)とその子カルサ様(上総守忠輝)との間に戦争が起ころうとしている。義父政宗殿がカルサ様と接触するらしい」との記述があります。

忠輝廃絶後の高田城に入ったのは徳川四天王の筆頭酒井忠次の子、家次です。
酒井家はその後、信濃松代をへて庄内藩へ移封となります。

次は松平光長が藩主となります。
「越後騒動」で改易となったのは有名な話です。

その後、短い期間で城主が入れ替わり、寛保2年に榊原家が姫路から入封し幕末まで続きます。
その移封は、懲罰的なものだったそうです。
藩主政岑(まさみね)が尾張の宗春と一緒になって吉原で遊び狂い、遊女高尾太夫を身請けしたことが、
将軍吉宗の逆鱗に触れたもののようです。

政岑の墓所は、春日山の林泉寺にありますが、罪人としてその墓には金網が掛けられていたそうです。
連れの徳川宗春も隠居蟄居を命じられ、死後、その墓には同様に金網が張られました。
宗春の墓所は名古屋市東区の建中寺にあります。





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