23年ぶりに新潟勤務となりました。23年の間に、この地の何が変わって、何が変わらないのか、若かりし頃の自分へのメッセージです。
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新潟から秋田へ、羽越線を「特急いなほ」が走っています。「特急いなほ」と言えば、近くは2005年12月の転覆事故を思い出しますよね。事故原因は局地的な突風との結論が出されたと思います。あの時の列車は、485系3000番台の列車でしたので、この写真とはちょっとタイプが異なります。これは485系1500番台の列車だと思います。いずれにしても旧国鉄485系の列車ですね。昭和50年代の列車です。少し前のことですが、この列車に乗って面白い物を見ました。
新発田城は別名を「あやめ城」とも言われるそうです。新発田藩主の溝口家は尾張国中島郡溝口村の出で、初代の溝口秀勝は当初信長の家臣丹羽長秀に仕えました。長秀の死後、秀吉の直臣となり、加賀の大聖寺から新発田へ移封されたところで、関ヶ原の合戦となります。手堅く家康方について、外様藩ながら幕末まで続いた藩です。明治維新では周囲の情勢から奥羽列藩同盟に属しましたが、北越戊辰戦争では新政府軍とともに新潟を攻めています。
ここのところ暑い日が続いています。さて、新発田散歩の続きです。清水園からお城へ向かう途中に寺町通りがあります。通りの両側にお寺が並んでいます。きっと城下町の防衛拠点としての役割を果たすための配置ですね。その意味では城下町らしい風景です。
清水園、新発田藩三代藩主がここにあった寺を近郊に移し、下屋敷として造営しました。お城を中心に新発田の町を見ると、戦略的にには大いに意味ある下屋敷の配置だと思いました。新発田城の東、北、西は当時湿地帯だったそうです。南に寺町を配置し、その先端にこの清水園(要は兵を籠めるスペースですね)を造った意味を新発田の町を歩いて実感しました。当時の新発田城下の第一線防衛拠点ですね。外様藩ながら明治維新まで存続した新発田藩のしたたかさがよく判ります。写真は書院から庭を望んだ景色です。
「あやめまつり」やっていると言うことで、新発田市の五十公野公園へ出かけました。
2012年4月1日~
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