三国街道塩沢宿を歩く [新潟県内の旅]
三国街道は越後と江戸を結ぶ街道のひとつです。
高崎で中山道と別れ、三国峠を越え、長岡を経由して、日本海に面する寺泊で北国浜街道につながります。
以前、摂田屋(長岡:2010年10月3日の「摂田屋を訪ねて」を参照してください)で三国街道を歩きました。
今回は、魚沼の塩沢宿を歩きます。
塩沢は宿場町でしたが、越後上布や塩沢縮などの織物の町としても栄えました。
白壁、切妻屋根の妻入り建物が並び、雁木が連なる街並みが街道沿いに続きます。
この通りを「牧之通り」と呼ぶのだそうです。
城下町高田を歩く(上越への旅) [新潟県内の旅]
高田は日露戦争時に編成された第13師団の駐屯地でありました。
高田城の堀の一部を埋めて駐屯地が造られました。
写真は、第13師団長官舎です。
明治43年、第3代師団長長岡外史の時代に建てられた建物です。
長岡外史中将はレルヒ少佐とともに日本にスキーを伝えた人物として知られています。
白亜のしゃれた建物でした。
長岡中将の次に第13師団長となったのは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場する秋山好古です。
高田は戦災に会っていないので、昔のままの俤を残しています。
歩くのが楽しくなるような町です。
高田城(上越への旅) [新潟県内の旅]
春日山下から、バスで高田城へ向かいます。
30分程度で高田公園に到着しました。
堀には色鮮やかな橋が架かり、水面は蓮で覆われています。
やっぱり平面のお城はいいですね・・・・足腰に負担がなくて。
秀吉の命で、上杉景勝は会津に移封されます。
その後を掘秀治が45万石で越後に入ってきました。
堀家は直江津の日本海に面した土地に福島城を作りました。
慶長12年のことです。
家康は加賀の前田家をけん制するために越後を徳川一族で固める必要を感じたためか、
その忠輝の時代につくられたのが、この高田城です。
堀家は内訌を理由に慶長15年に除封となっています。
春日山城(上越への旅) [新潟県内の旅]
新潟県は北から南まで、およそ250kmもある長大な県です。
ですから、普段、上越を訪れる機会がなかなかありません。
しかし上越は古代から中世、近世初頭までは越後の中心地であった地域です。
それで、意を決して、直江津・高田への旅を試みました。
新潟から金沢行き特急北越に乗り、直江津で下車、駅前からバスに乗り、春日山城へ向かいます。
バスは途中、五智国分寺の前を経由します。
国分寺の存在や、直江津に残る国府の地名により、越後統治の中心であったことを知ることができます。
戦国期の上杉謙信の居城がここにあったことも納得できます。
写真は春日山城の外郭を成す監物掘です。
土塁の上に柵が復元され、「毘」の旗がなびく様は戦国期の城塞を彷彿とさせます。
これからの春日山城散策への期待が高まります。
庄内の食べ物(鶴岡・酒田への旅) [新潟以外の食べ物]
鶴岡で、お昼に食べた「麦きり」です。
小麦粉をこねて延ばし包丁で切るため、この名前があります。
「うどん」とどこが違うの・・と、突っ込みを入れたくなりますが、これを食べました。
食べたのは「絹入り麦きり」です。
「絹を入れることで程よいコシが生まれ、口当たりがなめらかになり、麦きりのうまさがさらに引き出されます。」
と、鶴岡市観光物産課、推奨の品です。
湊町酒田を歩く2(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
鐙屋と同じ、本町通りに「本間家旧本邸」があります。
戦前までは日本最大の大地主と言われ、俗謡にも「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵前雨が降る、本間様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われた大富豪の屋敷です。
薬医門に続く白壁の塀は武家屋敷のようです。
本間家は佐渡本間氏の分家で、元禄のころ、「新潟屋」の屋号で酒田本町に店を構え、商いを始めます。
関西から古手、染物、金物などを仕入れ、商いを大きくしてゆきます。
やがて、酒田の36人衆の中に選ばれ、庄内藩への御用金を提供するような商人に成長しました。
このころから田畑を取得し、地主との一歩を踏み出します。
三代本間光丘はその財力をあてにした藩から請われて、庄内藩財政立て直しに携わります。
明和4年のことです。
ですから、商人ながら士分を持つ家柄となっています。
湊町酒田を歩く1(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
最上川河口近くに広がる酒田の町は、北前船が行き来する日本海航路の湊町として栄えました。
新潟の町が長岡藩領であったと同じように、酒田の町は庄内藩領でした。
酒田には庄内藩の奉行所が置かれましたが、36人衆と呼ばれる町年寄役が町政に関わっています。
写真は酒田のランドマーク、山居倉庫です。
明治26年に米穀倉庫として建てられ、倉庫を管理運営するのは、旧庄内藩酒井家から全農へと変わっていますが、今もなお現役の倉庫です。
海坂藩を訪ねる3(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
藤沢周平の「暗殺の年輪」は直木賞の受賞作ですが、これも藩内の派閥争いが背景になっています。
主人公の葛西謦之助は家老から、中老嶺岡の暗殺を命じられます。
「嶺岡が下城するのは五ツ」の知らせを受けて、謦之助は、闇のなか上士の武家屋敷が並ぶ塀の陰に潜み、嶺岡を待ち伏せします。
鶴ゲ岡城の大手門は東に向かって開いています。
そこから、内川(小説では五間川)に架かる三雪橋(9月25日の記事の赤い橋です)へ続く道は一直線となっています。
両側に上士の屋敷が並んでいたそうです。
写真の黒い門は、庄内藩の家老末松家の屋敷門です。
とすれば、謦之助が潜んだのは、このあたりでしょうか。
・・・と、門の内をよく見れば、向こうには赤い尖塔を持った白い建物が見えるではありませんか。
海坂藩を訪ねる2(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
丙申堂の玄関です。
鶴岡の豪商風間家の店舗兼住宅です。
風間家は越後の沢海から、この鶴岡へ移住し、有数の商家として栄え、荘内銀行の創立に係わったそうです。
かつては沢海藩の武士でしたが、沢海藩が改易になるととともに、武士を廃業して鶴岡に移住して成功したのですね。
現在の建物は明治29年の丙申の年に建てられた建物だそうです。
その壮大さ、部屋数の多さに驚きます。
掃除機、使っても、一日かがりかも。
そして特徴的な屋根が印象的でした。
海坂藩を訪ねる(鶴岡・酒田への旅) [新潟県外への旅]
連休を利用して鶴岡・酒田への旅をしました。
鶴岡・酒田には江戸時代、酒井家庄内藩が置かれました。
酒井家は「徳川実記」によれば徳川家の庶流(分家)と言われ、徳川四天王筆頭とされる家系です。
江戸初期、最上家の断絶後、庄内に移封され、明治維新まで続いた藩であります。
そして幕末の維新戦争では最後まで戦った藩となります。
要は、三河の在のひとですね。
そんな歴史より、最近は藤沢周平の歴史小説の舞台「海坂藩」のモデルとして知られているようです。
今回は小説の舞台を訪ねる旅です。
新潟から特急いなほで鶴岡を目指します。
村上を過ぎると列車は、海沿いを走ります。
笹川流れを過ぎしばらく走ると、義経の東下りの伝説のある鼠ヶ関はもう鶴岡市です。
義経の東下り:頼朝に追われた義経は奥州平泉へ逃亡しますが、ここ鼠ヶ関を経由したと言い伝えられています。
新潟明和事件を歩く(2) [新潟市内散策]
一方奉行所側も鉄砲隊を繰り出します。
坂内小路あたりで両者は衝突します。
奉行所側の鉄砲に、町民側は通りを挟む両屋根から薪、つぶてを投げて対抗します。
ついに奉行所側は敗走していまいます。
その後、群衆は黒装束の者たちの指揮で、密告者などの家屋の打ちこわしをしました。
翌朝までに打ちこわしにあった家屋は十五軒に上りました。
激突現場付近の坂内小路に立って、古町通りを望む光景です。
新潟明和事件を歩く(1) [新潟市内散策]
酒と女(芸妓)と食い物だけが興味の対象ではないことを証明したいので、歴史散策などしてみたいと思います。
歴史で学んだ明和事件は幕府による思想弾圧事件でしたが、新潟の明和騒動も明和事件とよばれます。
市内に散在する明和事件の跡を訪ねてみました。
題して「明和事件を歩く」です。
お雪 [イベント]
明和義人祭へ行ってきました。
涌井藤四郎を慕う新潟芸妓お雪は、火坂雅志の創作上の人物ですが、明和義人行列の華です。
毎年、古町芸妓がお雪に扮します。
昨年は紅子さんでした。
ことしは、この春振袖さんから留袖さんになった春花さんです。
内心、期待していた通りの展開でした。
(明和義人、新潟明和騒動については、2010年8月28日明和義人祭の記事を参照してみてください。)
北前船みちのく丸 [イベント]
万代島ウォーク [新潟市内散策]
現在は信濃川の右岸を形成しています。
ここに、佐渡汽船のターミナルと、朱鷺メッセが所在しています。
陽が翳りはじめた午後5時過ぎ、万代島散策に出かけました。
日中は暑いので、早朝か日が落ち始めてしか動きたくありませんね。
土日は、まるで蝙蝠のような生活を送っております。
お盆の夜/西堀通りから古町へ [新潟市内散策]
土曜日の夕方、いつものウォーキングとはコースを変更して、信濃川を渡り、古町方面へ出かけました。
灯しごろの時間なのに家族連れで歩いている人々の多いのに驚きました。
気が付けば、今日は8月13日です。
招霊迎えのお墓詣りの人々ですね。
西堀通りは、お寺が並ぶ寺町でもあります。
お寺の門前には供花を売る店が開き、開け放たれた本堂には煌々と明かりが燈っていました。
宮入り(2011新潟まつり2) [イベント]
新潟まつりの原点、住吉祭は、江戸時代の湊元(つもと)神社の祭礼に始まります。
新潟まつりのイベントのひとつ、住吉行列は、住吉大神の神幸祭なのです。
住吉神社は現在、白山神社に合祀されていますので、住吉の神様は白山神社から市内へ行幸し、
8月6日の夜、その宮入りが行われました。